本物の金!安倍川梅ヶ島金山へ②

地質

いよいよ金山跡へ!大河ドラマにはない歴史の小さな流れを感じます。

前日の記事→本物の金!安倍川梅ヶ島金山へ①

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梅ヶ島金山の歴史

梅ヶ島金山という名前は厳密にいえば現代の呼び方で、歴史的には安部金山の一部をなす金山が正しいようである。多少ややこしい話だが、今回紹介する日影沢金山梅ヶ島金山の一部である。16世紀初期(享禄頃)は今川氏の支配下で、梅ヶ島や井川一帯の安部金山、山を挟んで富士山側の富士金山の採掘がなされていた。富士金山は甲斐の国の中山金山とも近いことから、この辺りの金山は今川と武田の両陣営にとって、まさに争いの種であったのだろうか?

今川氏の時代には安部川と井川の砂金採取がメインであったが、永禄に武田信玄の南進により梅ヶ島/井川の金山も武田の配下になった。武田の領地である甲斐では黒川金山や中山金山などで培われた間歩(坑道)採掘の技術が駿河の国にも伝わり(ここら辺は妄想だが)、梅ヶ島金山などの採掘が進展したのであろうか。ただ慶長のころには安部金山は衰退したとあり、本格的な稼働は江戸時代まで待つこととなる。

やがて時代は移り江戸の時代になると、先の記事で紹介をしたように日影沢の開発が本格化する。日影沢金山の長盛鋪(坑)は江戸時代に開かれ、隆盛を極めたと現地の看板には書かれている。その為、日影沢は幕府の管理下となったが、その他の鉱区では鉱山跡での落穂拾い(古鋪跡のさらい)や砂金の採掘が細々と行われていたらしい。

梅ヶ島の金山は今川家と武田家の隆盛と衰退、江戸幕府(徳川家)の繁栄を見とどけた歴史を現代に伝えていますね。

日影沢金坑の説明

坑道跡へ

いよいよ坑道の跡へ進みます。林道を進むと長盛鋪の窯あとや神社もありますが、坑道の周辺は綺麗に整備されており、歩きやすい遊歩道となっていました。途中に金堀衆住居跡などもありますが、あまり見どころはなく、観光地というよりもあくまでも史跡ですね。

金堀衆住宅跡 土留の石段が続く

日影沢金山跡はこんな感じ、古い鉱山跡ですが入り口は木組みで綺麗に整備されており、これが鉱山跡と書かれていなければ土留め工事のあとのようです。総延長666メートルとの事ですが、入るのは怖いですね笑

遊歩道の先に坑道口が開く

今回ここまで、続きも書きます(できればすぐに笑)

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