動物と鉱物の王国!?伊豆半島の旅④

地質

いよいよ龕付天正金山へ!家族経営の観光施設は操業当時がそのまま閉じ込められた空間でした。

前回の記事はこちら→動物と鉱物の王国!?伊豆半島の旅③

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精錬遺構の見学

金山の受付で待っていると、だいぶのお歳のご老人が来ました。ゆーっくり歩きなが金山の歴史を教えてくれます。

先ずは精錬施設の跡へ!その方曰く、伊豆では長らく製錬をしていた跡などが見つかっていなかったのだか、この鉱山跡を整備しようと掘り起こしたところ、精錬跡とカラミを含んだ地層が表れたとか。この事から、江戸時代以前の伊豆の金の精錬拠点であったと予想されるとの事、江戸時代になるとアマルガム精錬が一般的になり、さらに明治以降は瀬戸内の住友金属鉱山の製錬基地まで運ばれて精錬がなされ、こうした精錬遺構は忘れ去られたとの事でした。

現時点でも草と落ち葉に埋もれて忘れ去られていそうな遺構の側に、カラミを含んだ地層の標本がありました。夜露に濡れて分かり難い!

カラミを含んだ地層

土肥の歴史

江戸時代になるとアマルガム精錬などが広がり、土肥金山の生産量も飛躍的に延びていく。土肥の港は金の積出港として、江戸と大阪を結ぶ船の拠点として、隆盛を極めたらしい。港としての拠点性を物語る逸話として、船がオモカジやトリカジと言う理由は、土肥港から見て、家康の居る駿府××面に向けて舵を切るとオモカジ、土肥港から見てトリ××岬に向けて舵を切るとトリカジだとか。××は、案内のおじいさんのテンションが上がって来たらしく、早口で聞き取れませんでした(*_*)

このように土肥の港や金山が隆盛を極めると、日本全国から山師が集まり働くようになる。そのような山師の賃金は、山師の服やワラジに付いた泥や錆で支払われたと言う話からも、かなり高品位な鉱脈が広がっていたと想像ができる。また、土肥には後藤町と言う地名があり、これは金を管理する後藤役所に由来しており、江戸幕府にとってどれだけ大切な位置を占めていたか分かる逸話である。

以上、案内のおじいさんのお話!まだまだ続きそうだが、このままでは坑道に入る前にチェックアウト時間になってしまう・・・。ちなみに、この逸話の一部は、受付の際に貰える冊子にもまとめられています。

龕付天正金山の紹介

記事も長くなって来たので一旦切ります。次こそは坑道の紹介へ!

次は記事はこちら→動物と鉱物の王国!?伊豆半島の旅⑤

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